太融寺

 太融寺(たいゆうじ)はこの界隈の地名・太融寺町の由来となるほど古くからある神社で、境内には秀吉の側室・淀殿の墓の他、国会期成同盟発祥の地碑などがあります。

太融寺
太融寺

淀殿之墓

 境内にある淀殿の墓。淀殿は近江の戦国大名・浅井長政と正室・市(信長の娘)の娘で、1588年に秀吉の側室となりましたが、

 秀吉の死後、徳川の世となってから起きた1615年の大坂夏の陣で、淀殿は徳川軍の攻撃を受け息子・秀頼と共に自刃しました。

 ちなみに浅井長政の娘はこの淀殿(茶々)の他あと2人いますが、3女の江は徳川秀忠の妻となり、その生涯は大河ドラマにもなりました。

淀殿之墓
淀殿之墓

国会期成同盟発祥の地碑

 「国会期成同盟発祥の地」碑というのもあります。

 明治維新後、高知の板垣退助らを中心に、藩閥政治や不平等条約の撤廃などを目指した自由民権運動が活発になりましたが、その後その板垣退助が結成した愛国社を中心に国会開設のための運動が本格化し、1880年にここ太融寺で国会期成同盟結成大会が開かれました。その後も運動は続けられ、1889年に大日本帝国憲法が制定され,、翌1890年に遂に第1回帝国議会が開かれました。

国会期成同盟発祥の地碑
国会期成同盟発祥の地碑

広田富三郎殉職碑、玉の海正洋の碑

 広田富三郎殉職碑、玉の海正洋の碑というのもあります。

 広田富三郎という人は明治時代の郵便電信局に勤めていた人で、大阪郵便電信局員時代、風雨の中を電報配達していたところ、人力車と衝突し、電報を固く握ったまま、18歳の若さで殉職したのだそうです。

 また玉の海は大阪市出身の第51代横綱で、幕内優勝6回を数えましたが、全盛期の27歳の時に病死し、「悲劇の横綱」と呼ばれたのだそうです。

広田富三郎殉職碑、玉の海正洋の碑
広田富三郎殉職碑、玉の海正洋の碑