会津若松城界隈

会津若松城

 七日町駅から南東へ1.5㎞ほど行ったところに聳え立つ会津若松城。真っ白な壁にほのかな紅色の瓦屋根の今の姿は、2011年に再建されたものです。

新島八重像

 会津若松城の東側の福島県立博物館前にある新島八重像。新島八重は会津藩の女性で戊辰戦争時に旧政府軍として戦い、明治維新後は京都に移り同志社大学を興した新島襄と結婚、同志社女子大学を創立しました。2013年のNHK大河ドラマの主人公になった人物で、凛として立つその手には、戊辰戦争時に使用したとされるスペンサー銃が握られています。

新島八重像
新島八重像

秋月悌次郎詩碑

 新島八重像の横にある秋月悌次郎詩碑。

 秋月悌次郎は会津藩士で、幕末、会津藩主・松平容保の側近として活躍し、維新後は新政府の議員や学校の教師として活躍したそうです。

 ここに書かれている詩は「北越潜行の詩」と呼ばれるものだそうで、戊辰戦争後、藩の減免を請うため新潟に行く際に詠んだ詩だそうです。

秋月悌次郎詩碑
秋月悌次郎詩碑

司馬遼太郎文学碑

 こちらも山本八重像の近くにある司馬遼太郎文学碑。碑には「会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。」(「歴史を紀行する」より)と、「容保が京を戦場に死のうといったとき慟哭の声がまず廊下からあがった。この声はまたたくまに満堂に伝播しみな面を蔽って泣いた。『君臣、相擁し、声を放って哭けり』と

この情景を劇的な表現で会津の古記録は語っている」(「王城の護衛者」)という2文が書かれています。

司馬遼太郎文学碑
司馬遼太郎文学碑

会津戊辰戦争終結の地

 会津若松城の北側の北出丸交差点の近くに、「会津戊辰戦争終結の地」の説明版があります。

 1868年9月22日、1ヶ月の籠城戦に耐えた鶴ヶ城に遂に降伏の白旗が揚げられ、会津戊辰戦争は終結し、その後錦旗を擁した新政府軍を迎え、この界隈で会津降伏式が行われたそうです。

 降伏式終了後、会津藩士達はこの日の無念を忘れぬ為に、その場に敷かれた緋毛氈を小片に切り刻み、懐に入れ持ち帰ったそうで、会津ではこの出来事を「泣血氈(きゅうけっせん)の誓い」と呼んでいるそうです。

会津戊辰戦争終結の地
会津戊辰戦争終結の地

西郷頼母邸跡

 会津戊辰戦争終結の地の説明版から道を挟んで少し北側にある西郷頼母(たのも)邸跡。

 西郷家は代々会津藩主の重臣を務めていたそうで、西郷頼母(たのも)は最後の会津藩主・松平容保に仕えていたそうです。

 戊辰戦争時はもちろん会津藩士として新政府軍と対峙し、榎本武揚や土方歳三らとともに北海道の五稜郭まで戦い抜いたそうです。

西郷頼母邸跡
西郷頼母邸跡

山鹿素行誕生の地・直江兼続屋敷跡

 会津戊辰戦争終結の地から西へ300ⅿほど行ったところに、山鹿素行誕生の地・直江兼続屋敷跡があります。

 山鹿素行(やまがそこう)は1622年生まれの儒学者・兵学者で、当時朱子学を批判したことから播磨の赤穂藩へ預けられ、そこで大石内蔵助ら赤穂藩士の教育を行った人物だそうです。

 またこの地は戦国時代、当時会津若松城主であった上杉景勝の側近でNHK大河ドラマの主人公にもなった直江兼続の屋敷があった場所でもあるそうです。

山鹿素行誕生の地
山鹿素行誕生の地

こちらは直江兼続屋敷跡の説明版。

直江兼続屋敷跡
直江兼続屋敷跡

日新館跡

 山鹿素行誕生の地・直江兼続屋敷跡地から南に250ⅿほど行ったところに、日新館跡の碑があります。

 日新館は会津藩の藩校として1803年に建てられました。人材育成のため学問や武術などが幅広く教えられ、天文台や日本最古のプールと言われる水練場もあり、白虎隊や後に戊辰戦争で活躍する多くの人物を輩出しました。

 ここにあった日新館は戊辰戦争で焼失しましたが、その後1987年に会津若松市の北部の方に復元されています。

 なおここの日新館跡の碑の横には須田新九郎頌徳碑というのも立っており、この須田新九郎という人は会津の商人で、日新館を建てる際に膨大な資金を寄付した人物なんだそうです。

 日新館跡
日新館跡

日新館天文台跡

 日新館跡碑から北西へ200ⅿほど行ったところにある日新館天文台跡。日新館は戊辰戦争で多くが焼失しましたが、この天文台の石垣だけは当時のまま残っています。

日新館天文台跡
日新館天文台跡

山本覚馬・新島八重 生誕地の碑

 日新館跡碑から南西へ250ⅿほど行ったところには山本覚馬・新島八重 生誕地の碑が。

 山本覚馬は新島八重の兄で、若い頃は日新館で学んだ後江戸で佐久間象山の塾に入り、その後会津に戻り藩の要職を担いました。戊辰戦争時には新政府軍に捕らわれており参戦しませんでしたが、その後釈放され、維新後は京都府議会議員になるなどし、後に妹の八重の夫となる新島襄に自身が薩摩藩から買った京都の敷地を譲渡し、そこで新島襄が興した同志社大学の名付け親でもあるそうです。

 なおこの山本家の遠祖は、武田信玄の重臣・山本勘助だそうです。

山本覚馬・新島八重 生誕地の碑
山本覚馬・新島八重 生誕地の碑