JR中央線・総武線の駅であるお御茶ノ水駅。駅の名前が珍しくてステキです。
御茶ノ水駅から道路を挟んですぐ西側にある御茶ノ水の碑。江戸時代、この付近にあったお寺の湧き水を徳川家がお茶用の水として使用していたことからこの地名がついたとのことです。
御茶ノ水駅のすぐ東に神田川を跨いで架かっている聖橋。北側の湯島聖堂と南側の東京復活大聖堂という2つの聖なるものを繋ぐ橋であることからその名がついたそうです。
御茶ノ水駅のホームから見た聖橋。
神田川沿いにJRが走る御茶ノ水界隈の景色。さだまさしの名曲「檸檬」が流れます♪
御茶ノ水駅から南へ100mほど行くとあるロシア系の綺麗な教会。一般的には「ニコライ堂」と呼ばれていますが、正式名称は「東京復活大聖堂」というそうです。この東京復活大聖堂はもともと1891年に建てられましたが、その後関東大震災により一度壊れ、今の姿は1929年に修復された姿だそうです。
東京復活大聖堂から西へ150mほど行くと、「大久保彦左衛門屋敷跡」の碑があります。大久保彦左衛門は戦国~江戸時代の武将で、徳川家康・家忠・家光の3代に仕えた忠実な家臣だったそうです。
小栗上野介生誕地碑
大久保彦左衛門屋敷跡から南へ100mほどいくと、今度は小栗上野介生誕地碑が立っています。
小栗上野介は幕末徳川幕府に仕えた幕臣で、横須賀製鉄所の建設や武器の量産など、幕府の立場ながら日本の近代化に大きく貢献した人物だそうです。
大久保彦左衛門屋敷跡から西へ200mほどいくと、文化学院の門があります。
この文化学院は1921年に歌人与謝野寛・晶子夫妻らが建てた学校で、当時国の学校令によらない自由で独創的な学校を目指して建てられたそうです。
文化学院は2014年に両国に移転しましたが、今もここに正門・建物は残っており、現在は民間の放送会社が入っています。
小栗上野介生誕地碑から西へ300mほど行ったお茶の水小学校の前に、文学「吾輩は猫である」の碑が立っています。
これは「吾輩は猫である」を書いた作家・夏目漱石が、このお茶の水小学校の前身である錦華小学校に通っていたことから、この碑が立っているそうです。
お茶の水小学校から北西へ300mほど行ったところの角に、小さくてレトロなコンクリートの建物がちょこんと建っています。
これはかつて交番だったらしく、今は神田猿楽町町会の詰所として使用され、千代田区にまちづくり重要物件に指定されているそうです。
神田猿楽町町会詰所から北西へ少し行ったところに、茶色いステキな教会があります。これはカトリック神田教会で、一番初めは1874年に建てられましたが、その後幾度か焼失し、現在の姿は1928年に再建されたものだそうです。
カトリック神田教会から更に西へ300mほど行くと日大がありますが、日大法学部図書館前に、講武所跡の説明版が立っています。
講武所というのは幕末のペリー来航により危機感を持った政府が剣術や砲術などの講習所として設立した機関で、勝海舟や大村益次郎、高島秋帆らが教授だったそうです。
また講武所跡の前の日大法学部のキャンパス前には山田顕義先生の胸像があります。
山田顕義氏は幕末の長州藩の出身で、桂小五郎や伊藤博文らとともに松下村塾に学び、明治期以降は長州閥の一員として初代司法大臣となりました。
山田顕義先生は日大の前身である日本法律学校の創設者であることから、その胸像が立っているそうです。
日大エリアから南下すると、古書の街として有名な神保町へ辿り着き、靖国通り沿いに趣のある古本屋が並んでいます。
学士会館
そして神保町駅から更に南へ200mほど行くと、茶色くて古い大きな学士会館という建物があります。
学士会館の東側に、錦三・七五三太(きんさん・しめた)公園と名付けられた公園があります。
学士会館前に新島襄先生生誕の地碑がありますが、ここはその新島襄が幼少期から21歳までの青春期を過ごした場所だそうで、「七五三」(しめた)というのは新島襄の幼少期の名前なんだそうです(当時新島家で4人の女児が続いた後の待望の男児で、祖父が「しめた!」と喜んだことからその名が付いたそうです(笑))。
ちなみに錦三(きんさん)というのはここの地名の「錦町三丁目」の意味のようです。
学習院(華族学校)開校の地碑
錦三・七五三太公園から南東へ300mほど行ったところに、学習院(華族学校)開校の地碑が立っています。
今も皇族の人が通う学習院は、1877年にこの地で華族学校として創立されたそうで、その後麹町→豊島区、新宿区へと移転したそうです。